2015年3月18日

日本ラテンアメリカ協力ネットワーク『そんりさ』連載記事より(その6)

CLIJALの活動から~ 国境を越える子どもたち

小高利根子

 「日本ラテンアメリカ子どもと本の会(CLIJAL)」についてはこのシリーズの第1回目で詳しく述べましたが、この会の活動の目的として私たちは次の3項目を挙げています。

1) 日本の人びとに、ラテンアメリカの文化や人びとのことを伝えていく。
2) 日本にくらすラテンアメリカ出身者やその子どもたちが、出身地のことばや文化を大切にできるような環境作りに協力する。
3) ラテンアメリカ出身者と日本人が互いの良さを認め合い、ともに生きていける社会づくりに貢献する。

 実際の活動としては、日本で出版されているラテンアメリカ関連の児童書を会のメンバーで読み合い、推薦できる本を選ぶことから始まりました。1年半ほど選書会議を重ね、108冊の選書リストが完成。これらの本を展示する図書展の企画も同時進行で進めました。

 本を見てもらいたい対象者は、ラテンアメリカ・ルーツの子どもたち、その家族、学校の先生と級友、地域の図書館関係の方々など。どんな本であるかの説明は、日本語、ポルトガル語、スペイン語の3カ国語併記がどうしても必要になってきます。図書展開催の準備の中で一番大変だったのは、この書誌作成の部分ではなかったかと思います。

 最終的にはB5版の用紙に3カ国語の書誌に加えてカラーの表紙写真、国旗、国の地図がついたものが出来上がり、それをプラスチックケースに入れてそれぞれの本の横に置くことができました。

 会場内での本の並べ方としては、まず大きく地域で分け(中南米全体、北米、中米、カリブ地域、南米)、その中で国別に並べるというのが、一番自然な形でしょう。ただ、私たちはそれとは別に、展示の最初に特別なコーナーを設けました。それが「国境を越える子どもたち」のコーナーです。




 私たちが選んだ本の中に、親の移民、亡命その他の理由で国境を越えなくてはならなかった子どもたちについての本が15冊ありました。親たちにははっきりした夢があり、目的があり、あるいはやむにやまれぬ事情があります。でも、子どもたちはどうでしょう?

 好むと好まざるとにかかわらず親について行く以外に選択肢はなかったのです。異文化の中に突然ほうりこまれた子どもたちの、大人とは違うとまどいや苦しみがこれらの本から伝わってきます。

 今、日本に住んでいるラテンアメリカ・ルーツの子どもたちはいわばそれと全く同じ状況にいるわけですから、私たちが「国境を越える子どもたち」というコーナー=写真=を設けたのはごく自然な発想だったと言えるでしょう。

 この15冊の中にはメキシコからの季節労働者としてアメリカにやってきた家族と図書館員とのふれあいを描いた『トマスと図書館のおねえさん』や難民としてやって来た街での違和感を絵本的に巧みに表現した『エロイーサと虫たち』などがあります。

 その中の1冊『さよならブラジル-国籍不明になった子供たち』(ルイス・プンテル著)に私がブラジルで出会い、翻訳をしたのは1989年のことでした。軍政時代のブラジルから父親の政治亡命のためにまずチリへ、それからフランスへと「国境を越えた」少年の物語です。言葉のわからない国で教室に座っていなくてはならないつらさ。生活に慣れて
言葉もわかるようになったら今度は「自分は母国ブラジルのことをなにも知らない…」というアイデンティティの問題。恩赦の発令で帰国が可能になったときには、親しい友人や恋人とのつらい別れ。……様々な経験を重ねて少年は成長し、「自分のせいで家族を犠牲にしたのでは?」と悩む父親に「自分の意志を曲げなかった父さんを誇りに思っているよ」と告げます。

 この本を翻訳した時点で私の頭にあったのは「サンパウロ日本人小中学校」その他海外の日本人学校に通う子どもたち(自分の娘を含めて)のことでした。原作はブラジルの学校の課題図書で対象年令は「中3以上」とされていたのですが、海外に住む子どもたちならもっと下の学年でも自分の境遇と重ね合わせ共感を持って理解してもらえるのではないかと思ったのです。

 「小学校高学年の子が読めるように漢字にはルビをふり、でも、大人が電車の中で読んでも恥ずかしくないような、あまり子どもっぽくない表紙に」という私の注文を出版社は全面的に採用してくれて本は出来上がりました。そしてサンパウロ日本人学校の図書館に置かれたこの本を、本好きの子なら小学校4年生くらいから十分読みこなしていました。「亡命」と「親の転勤」とでは社会的な立場も経済的な状況も心理的プレッシャーもまるで違いますが、自分の意志とは関係なく無理やり連れて来られたという点では同じだと言えるのではないでしょうか。

 その後、1990年の入管法改正と共にブラジルやペルーなどから単身で出稼ぎに来ていた日系人たちが家族を呼び寄せるようになり、定住者も増えて、ここ日本でも「国境を越えた子どもたち」の数が急増することになったのです。

 ブラジルでは軍事政権の時代(1964~1985)に政治亡命した人々の数は22年に及ぶ全期間を通じても数千人の単位だったと言われています。ところがその後民政移管してから経済的理由で他国へ「出稼ぎ」に行った数は数百万人の単位と報道されています。人間は何よりも経済的な動機で流動するものだとつくづく思わされます。今後もこうした流動が続
く限り、「国境を越える子どもたち」は減ることはないでしょう。

 私はブラジルで出会った一人の日系二世の青年の言葉が忘れられません。「ぼくはブラジルではニホンジンと呼ばれ、日本に行ったらブラジル人と言われる。実際、ブラジルで日系コロニア社会に生きてきたぼくはブラジル人としては70%かも知れない。日本人としても70%かも知れない。でも、お陰でぼくは140%の人生を生きられると思っている」とい
う言葉です。

 今、日本に住むラテンアメリカ・ルーツの子どもたちが、祖国に誇りを持ち、日本に生きることをプラスと考えて、より豊かな「140%の人生を生きている」と感じてくれたら、どんなにすばらしいことでしょう。そのためのお手伝いをCLIJALの活動を通してわずかばかりでもすることができたら、と願っています。